青の光と星

目に見えないけれど、確かにある世界を感じ始めた私の日々について。

妬ましい人。

私が自分の子どもの部分を

強く抑えつけてきた事に

思いを巡らせる中で

気づいたことがありました。

 

中学になる頃出会った

ある友人と、

20代初めまで

ずっと付き合ってきたのに

 

ある時

どうしても許せなくなって

付き合いを止めることに

しました。

 

彼女は私には

とてもわがままで、こき使われたり

振り回されても断ることが

出来なくて疲れたからです。

 

私は基本的に

喧嘩するだとか

言いたいことを言うことが

出来ない人間だったので

 

何も言わず

離れるという方法を取り

関係は消滅していきました。

 

その事について、自分の中でも

罪悪感があり

不完全燃焼で

一体何で彼女の事が

嫌いで許せなかったのだろう。

自分の中で

何が起きていたんだろう。

と何度も浮かんでは

 

いや、彼女がわがまますぎるから

悪いんだ。

もう私には関係ない。

そう思うことで忘れようとしました。

 

そして今回、

どうして許せなかったのか

よく分かりました。

彼女は私が心の中で

抑えつけた

『子ども』を表現した人

だったからです。

 

彼女はとても

天真爛漫で素直で

やりたい放題。

人がどう思うかなんて

全く気にしない。

ひょうきんで、いたずら好きで

新しく先鋭的なものを見つけ

人が好きで、感情を隠さない。

 

私が徹底的に

抑えつけている自由な

『内なる子ども』を

彼女は解放して生きていた。

それが妬ましく、許せなくて

苦しくて

耐えられなくなったのだと。

 

私は彼女のことを

『妬ましい、羨ましい、悔しい』と

いつもいつも思っていたことを

思い出しました。

 

彼女と出会った年頃に

私は子どもらしい自分を

捨てるようになったと

記憶しています。

 

とはいえ、それは

私の本質なので

完全に捨て去ることは出来ない、

他者を通して

殺している自分を

見続けていた。ということです。

 

私がすべきことは

自分を抑えつけるのを止めて

自由に生きることを

許可すること。

 

殺してきた『子ども』を

解放し、再び

子どもを生きること。

 

そうすれば

『子ども』を外側に見ても

妬まずに怒らずに

言いなりにならずに

いられるようになる。

 

子ども時代から

私はどういうことを

『するな!』と自分に禁じてきただろう。

 

沢山、沢山

あるけれど

もう一度振り返り

自分で捨てようとしてきたもの達に

再び、生命を

吹き込んでいこうと思います。