青の光と星

目に見えないけれど、確かにある世界を感じ始めた私の日々について。

自己犠牲をやめる。

最近、本当にやめなきゃ

いけないなーと思うことが

改めて出てきている。

 

コロナのおかげで(笑)。

 

私は両親と暮らしているので

私が見たくなくても

いつもTVがついている。

勿論、内容はコロナばかりだ。

 

それで両親は

TVに同調し

どんどん不安になって

イライラして

喧嘩し始めるのだ。

ほぼ、毎日のように(笑)。

 

ここで問題となるのは

両親ではなく

私の心のあり方だ。

 

『私のせいだ。私が悪いから

喧嘩になるんだ。私が足りないから。

もっと頑張らなくちゃ。

両親が喧嘩しないように

二人の仲をなんとかしなければ。』

と仲裁しようとする自分がいる。

 

子どもの頃から

繰り返してきた信念のパターンに

嵌まり、恐怖が出る。

 

両親の喧嘩は

私のせいではないことは

色々とやってきた中で

分かっているのだけど、

まだこのパターンに

掴まる自分がいて、

 

どうして掴まるのかというと

私が心理的に自己犠牲することによって

親に愛されたい!

認めてもらいたい!

からである。

 

両親と一緒に苦しみ、

同じ感情に溺れることで

辛いけれども

仲間でいられる、

孤独を免れるということもある。

 

私は気づくと

昔から人間関係が

共依存になりやすく、

表面的な安心を求めてしまう所がある。

 

けれども

最近の状況で気づいたのは

両親の喧嘩は

両親にとっての『愛の形』

なのだということだ。

 

激しい喧嘩を通して

内側の嘆きを吐き出し合っている。

一種の浄化作業、

心理セラピーやワークのような

エネルギーの解放をしているのだ。

 

苦しみを抑圧してきた

両親にはそれが

生きるために必要だった。

 

だから本当に

私のせいではない、

ただ必要な解放、癒しが起きていた

だけだったんだ、

という理解がやっと出来た。

 

なので

私のできることは

喧嘩を止めないこと。

両親のあるがままを認めること。

『喧嘩を止めて欲しい』思いを

手放すこと。

自ら両親の犠牲者となることを止めて

立ち去ること。

なのだろうと思う。

 

それで昨日から

両親が喧嘩を始めたら

自室に戻ることにした。

仲裁しない。

食事時なら食事も持っていく。

その場に居続けるのを

やめる。

 

すると、

心が『嬉しい!』と喜ぶのを感じた。

意識的に

喧嘩の場に居続けるのを

止めたからだ。

 

気づいたからといって

今すぐ、家を出る必要はないと

思っている。

行動だけしても

心が家を出ていないのなら

また戻ってしまう。

それなら今まで

何度もしてきたのだ。

その時が来たら、

きっと出るだろう。

ここではもう

喧嘩を仲裁しようとする

私の出番は、本当は必要ないのだから。

 

 

心理的

家を出ることは

今からでも出来るのだ。