青の光と星

目に見えないけれど、確かにある世界を感じ始めた私の日々について。

境界を保つことの大切さ。

先日の大地震のような

災害の被害者に

対し、どう接するのか。

考えるのか。

 

災害の被害者だけでは

ない。

 

例えば、私の職場の

子ども達のような人々。

 

私の職場は

児童養護施設といって

育児放棄などの虐待により

親と暮らせない子ども達がいる。

 

その子ども達は

『私の事、可哀相だと思うでしょう?

話しを聞いて、もっと愛して。構って!

寂しいよ。助けてよ』という

エネルギーを放っている。

 

彼らと付き合うことは

私にとって、本当に

キツかった。大変だった。

 

でも今はかなり平気である。

普通でいられるように

なった。

 

それは私が

彼らに同情するのを止めたから。

 

彼らの生き方に

敬意を持ち、

『彼らは可哀相な存在ではない』と

見るようになったからだ。

 

同情を止めることは

私にとって苦行だった。

 

罪悪感で

苦しくて潰れそうだった。

彼らに同情し、

『可哀相で無力な』

彼らの世話をする人でいるほうが

楽だった。

 

ここまで来るのに

2年かかった。

その付き合い方のトレーニングは

今でも

続いている。

 

私は特に母親と

共依存だったので

相手を無力な者、可哀相な人として

世話する、される。

どちらかは、我慢する。犠牲者になる。

という関係に慣れている。

 

親元を離れても

友人、職場、

上司、先輩、先生…

 

気づくと無意識に

様々な人や環境の中で

繰り返してきた。

  

施設の子どもは

可哀相。

恵まれない者達。

不遇で、不運な人々である。

 

そういった見方が

社会では多いと思う。

私もそうだった。

 

しかし、彼ら子ども達は

ダメな親や環境の犠牲者ではない。

 

セラピーなどで

子ども時代の振り返りをして

抑圧した感情を解放するときには

そういった見方も有効だし

必要でもあると思う。

 

でも、魂の観点、

今のこの自分をみている

より大きな自己の視点から見れば

『魂の本当の目的のため』

より良く生きるため、

『自ら企画して起こしている』

出来事である。

 

本当に魂というものの

視点は

人間である私達の

理解を超えていて

 

『何でこんなひどいこと、辛いことを

経験しなきゃならない!?』と

いいたくなることばかりである。

 

 苦しんでいる

 その時は何が起きているのか

分からなくても

開かれた道を一生懸命

取り組んでいたら

 

どんどん視点が変わっていって

楽になっていたり

『これで良かったんだ!』と

後になって

納得することが殆どである。

 

様々な社会的弱者と

呼ばれる人々。

何らかの被害者、被災者へ

 

『理解はするが

同情はしない』という

在り方がある。

 

その人のより『大きな自己』が

選んだ生き方、

魂の力を信頼する。

余計な心配、手助けは

無用である。

 

常に守り、導いている自己が

いるから。

 

苦しんでいる人を

その尊い経験を

奪おうとするのをやめる。

 

真の強さ、

援助者の無価値感を埋めるためではない

本当の愛が

必要だ。

 

私達はそれぞれが 

それぞれの世界の創造者。

被害者や犠牲者ではない。

 

その尊い人生の中で

全てを創造する力を持つ、主なのだ。